子どもの頃からあまり勉強が得意ではなかった私に、母は本だけはケチらずに買ってくれた。本を読めば字も覚えるだろう、漢字も読めるようになるだろう、という目論見だったに違いない。事実、姉たちは本を読んで字を覚え、勉強もよくお出来になったのだ。その調子で!と母が思ったのもよく解る。しかし、姉たちが読んだ「少年少女世界文学全集」を自力で読む力が私には無く、それらの本は、毎晩、母に読んでもらうことになった。『ああ、無情』『秘密の花園』等など。自分で読まないから、当然のことながら漢字はもちろん、平仮名もさっぱり覚えられなかった。小学校入学のころになっても、自分の名前がやっと読める程度で、書くことはままならないという遅れようであった。
自分で本を読むようになったのは小学校も高学年になってから。江戸川乱歩の「少年探偵団」だった。怪人二十面相を追う名探偵・明智小五郎と、それを補佐する小林少年が活躍するシリーズで、変幻自在に化ける犯人を追い詰めるストーリーにワクワクしたものである。この経験がミステリー好きの原点になったと思われる。
中学校に入る頃には「少年探偵団」を卒業して、シャーロック・ホームズにハマった。ご存知、怜悧なホームズと、ちょっと間抜けなワトソンのコンビに夢中になった。のちにテレビドラマ『相棒』において、怜悧な杉下右京と間抜けの亀ちゃんのコンビはこのパターンを模したものと言われており、言わば探偵もののコンビスタイルの定番でもある。
「やあ、ワトソン君、ひさしぶり」
これは、滝壺に落ちて死んだはずのホームズの声が聞こえ、ワトソンが仰天する場面である。たしか、『シャーロックホームズの帰還』だったと思う。その現れ方が爽やかで、「良かった、ホームズは死んでいないのだ」と嬉しかったことを覚えている。本格的探偵物の元祖・ホームズの活躍は魅力的だった。印象的だったのは「君は見てるだけで、観察してないんだよ。そこに階段があるということは見ていても、何段あるのかは観察してないだろう」とワトソン君を諭す場面があったけれど、なるほどと、妙に納得したことを覚えている。確かにホームズは、1度会っただけの人を、「どこの地方の出身で、どんな職業で、どんな性格か……」を言い当てることが出来るという、驚くべき観察眼であった。長編の『バスカービルの犬』『緋色の研究』『四つの署名』なども読み応えがあり、その考察に舌をまいたものだ。1950年代の新潮文庫から出版されたホームズシリーズは全部読み、大人になったらロンドンのベーカー街(ホームズの部屋があった)へ行ってみたいと願ったものである。
その後、高校・大学と進む頃、日本では松本清張という推理小説のスーパースターが現われ、推理小説ブームが起こった。笹沢佐保、水上勉、結城昌治、戸川昌子等々、次々と推理作家が誕生した。この頃には探偵小説という括り方ではなく推理小説、あるいはミステリー小説と言われるようになり、純文学は芥川賞、大衆文学は直木賞、そして推理小説は乱歩賞というのが登竜門となり、推理小説も文学界に一つのギャンルを確立した。現在も、その系譜は脈々と受け継がれ、宮部みゆき、東野圭吾、桐野夏生など幾多の作家が健筆を振るっている。
大学では『ワセダ・ミステリ・クラブ』という推理小説を書いたり、読んだり、喋ったりするサークルに入った。いっぱしのミステリ・マニアを気取って、神田の古本街を漁り、ハヤカワの「ポケ・ミス(ポケットミステリ)」という外国の翻訳物に凝った時期もあった。クリスティ、ガードナー、クロフツ……。目も良かったのだろうと思うが、よくあんな小さく読みにくい活字で読んだものだ。若いって素晴らしい。
その後、結婚した相手がミステリークラブの先輩で、私よりもたくさん読んでいたし、そのまた父親が年季の入ったミステリーフアンだったこともあり、書店のミステリーコーナーほどの本が残された。さらに子どもたちがそれぞれに集めたミステリーもあった。子どもたちは結婚して家を出るとき、ガラクタと共に当たり前のように置き捨てていった。斯くして、我が家はミステリーだらけとなったのである。私もそう若くはないし、終活しなければならないというのに、「どうする!このミステリー」と、溜息が出る日々である。
夫はよく、「本だけが我が家の財産だ」と言っていた。しかし、この財産、資産価値はまったくなく、今や、負の遺産そのものである。ああ、ミステリー本の行方やいかに……。