ピチャッ
プチャッ
ポッ
パッ
ペッ
クチャッ
と、文字にするとこんな感じ。
音声の収録時に声と一緒に録音されてしまう人体起源の雑音。口を開閉したとき、唇、舌の動きと唾液の絡みで発生。つまり声を録るからにはどうにも避けようがない。
その名もリップノイズ。
美しい女優の滑らかな唇からピチャッ。
長尺のモノローグでプチャックチャッ。
泣かせどころの台詞の語尾でペッ。
容赦なし。
あれ? そんなの映画でもドラマでも気になったことないけど……と思われたそこのあなた、良い耳をしておいでです。なぜならリップノイズは密かにこの世から抹殺され続けている裏世界の存在。ヒットマンとして近年名を上げているのはソフトウェア。目覚ましい進化を遂げ、音声データ内で躍動する威勢のいいペチャクチャを瞬殺。ただしここで思い出していただきたいのが、声もリップノイズも同じ音であること。それぞれが分離しているならまだしも、声の中で同時に発生しているリップノイズなどは、それが声なのかノイズなのかを判別しなければならず、ソフトウェアに一任するのはいささか酷。
となると最後はやはり、人間。
音声データの波形とヘッドホンから届く微妙な気配に集中し、まさに血のにじむような努力と根性の手作業で、一つ、一つ、リップノイズ殲滅を試みることになる。
ここでちょっとマニアック。
かつて*CKに、いくつもの名作ラジオドラマを世に送り出した伝説の演出家がいた。
角岡正美
この演出家は収録時に徹底してマイクの位置にこだわった。
基本、オンマイク。
思いっきり口元にマイクを寄せる。
例えば「愛してる」という台詞があったとする。親密な二人が秘めていた想いを伝え合う…そんなラジオドラマのシーン。実際に試していただけばわかると思うが、この台詞は大声でハキハキと口にされるよりも、息が感じられるほどに近く、それこそ耳元で「愛してる」と囁きかけられると身悶えするほどゾクゾクする(※個人の感想です)。室内での会話などは思っているよりもずっと声は出ていないもの。にもかかわらず離れたマイクに鍛え抜かれた完璧な発声で語りかけようものなら(マイク=耳なので)聴き手にはどこか日常とは違った印象に聞こえてしまう。角岡ディレクターは口とマイクの関係を研究し、探求し、成果の数々を実践した。耳にしているだけで台詞に体温を感じさせたり、実際に緊迫する現場にいるような気配を覚えさせたり、この世界の中で自分だけが語りかけられているかのようにモノローグを聴かせたりと、あたかも音の魔術師のごとく独自の臨場感を生み出した
で、ここからさらにちょっとマニアック。
オンマイクには宿命のリスクがある。
マイクが近い→声を落とす→待っていましたとばかりにピチャッとリップノイズが自己主張する。
つまり口とマイクを近づけると必然的に巨大リップノイズとの戦いになる。それを覚悟しなければマイクを口元に寄せられない。
知らぬ方も多いかもしれないが、かつて音声はやたら細くて薄くて永遠のごとく長い黒褐色の磁気テープなるものに収録していた。現在のようにデジタルデータなら画面上の操作でリップノイズを消し去れるが、この磁気テープという記録媒体でどのようにリップノイズを消していたか…さて、想像してみて欲しい。
道具はハサミと専用テープ。
1.まず磁気テープのリップノイズが収録されている部分(起点から終点)に印をつける。
2.印の範囲をハサミで切り取る。
3.切り端同士を専用テープでつなげる。
これを延々繰り返す。
角岡ディレクターはこの作業を自らも行った。
忘れられない朝がある。
私が初めて脚本家として参加したCKのスタジオ。収録後、出演した役者に酒を誘われた。まだ学生だった私はワクワクを爆発させながら夜通し飲み歩いた。翌朝、有頂天でスタジオに入ると、角岡ディレクターは台詞を収録したレコーダーの前で、錯覚かと思うほど昨夜と同じ姿勢で作業をしていた。興奮のまま顛末を語る若造に「それは良かったですね」と朗らかな顔を見せて喜び、落としたばかりのコーヒーを勧めてくれた。それから、何気にオープンテープの巻き戻しボタンをひねった。回転を始めた黒褐色の磁気テープ。その色が一瞬、白くなった。リップノイズを切った後をつなぐ専用テープの色だとわかった。回転スピードが上がるにつれて白の時間は増えていった。そして、白しか見えなくなった。
身を削ることを承知で挑んだ、覚悟の色だった。
田島秀樹
*CKはNHK名古屋放送局の略称。AKは東京放送局、BKは大阪放送局を指します。