それは名古屋に引っ越してきて、まもなくのことだった。名古屋生まれ名古屋育ちの年上の友人と、名駅(『めいえき』と読む。J R名古屋駅前のこと)でランチを食べた後、ゆっくりとお茶を飲んでいる時に事件は起きた。
「ところでご主人は、いつも何時頃、帰ってみえるの?」
あれ? 何かがおかしいぞ。何か引っかかる。そうか、「帰ってみえる」の部分だ。「帰ってみえる」って……何だ? 夫が家に「帰ってきて」、それが私から「見える」という意味だろうか……?
混乱する私に、友人は重ねて尋ねた。
「ご主人のお帰りは、いつも何時頃?」
(ああ、そっか)私はホッとした。さっきの「みえる」と聞こえたのは、私の聞き間違いだったのだ、と。
ところが聞き間違いではなかった。名古屋で暮らすようになり、その「みえる」は、あちこちで、色々な人達から聞こえてくるようになった。
「食べてみえる」「行ってみえる」「通ってみえる」「乗ってみえる」「走ってみえる」「歩いてみえる」「泳いでみえる」「みえる」「みえる」「みえる」「みえる」……。
そうなのだ。名古屋の人達にとって、「みえる」は、相手を敬う時に使う言葉。どんな動詞にでも、「みえる」をつけ加えることによって、なんとそれが敬語になってしまうという、便利な万能調味料のような言葉なのだ!
大阪生まれ、大阪育ちの私にとって、この「みえる」という方言はやがて、ひつまぶしよりも、味噌煮込みうどんよりも、しゃちほこよりも名古屋を感じさせるものとなった。
そして次第にわかってきたことは、名古屋の人達は、この「みえる」が、全国共通の正式な尊敬語だと思っているらしいということだ。その証拠に、私の周りの名古屋人たちに、「みえる」がこの地域特有の使い方だと言うとみな、
「え? そうなの?」
と、不思議そうな顔をする。そのあまりの屈託のない様子に、(本当はわかっていて、しらばっくれてんじゃないのぉ?)と、私は疑念を抱いた。というのも、私の出身地である関西地方にも、同じような言葉の使い方があるからだ。
例えば「食べる」という動詞。大阪や京都などでは「食べてはる」「食べたはる」、と動詞になんでも「はる」をつけることによって敬語にするという使い方がある。しかし関西人達は、それが関西独自の敬語の用法であることを知っている。だから名古屋の人達も、本当は知っているのではないかと、いや、そうに違いないと、私は次第に確信めいた気持ちを持つようになった。
しかし、その私の疑念はある時、木端微塵に打ち砕かれた。それは名古屋人御用達の、某松坂屋デパートにいた時である。アナウンスが流れてきた。
「迷子のお子さんをお預かりしています。白にピンクの水玉模様のワンピースを着てみえる四歳の女のお子さんを……」
(み、「みえる」って言った? い、今、「みえる」って……言った?)
私は、四階の婦人服売り場の通路で、立ちすくんだ。公と言ってもいいデパートのアナウンスが、堂々と「みえる」用法を使っているのだ。名古屋の人達は、「みえる」が正式な敬語だと微塵も疑ってないことが、その時はっきりとわかったのだ。
後にこの「みえる」が、名古屋だけではなく、愛知県全体で、そして三重県でも使われる言葉だということを知った。そして(私の)調査によると、比較的若い世代の人達の中には、使わない人もいるらしいし、それが方言だと知っている人もいるらしい。
しかしやはり、私にとってこの「みえる」は、この地の地域性を最も感じさせられる言葉に変わりはない。気取ったフランス料理屋のソムリエが、銀行の営業マンが、小学校の先生が授業参観で、何の躊躇いもなく「みえる」用法を使う時、この地の人々の底力を感じる。
「三英傑の時代から、ここが日本の中心だで。文句あっか?」(合っているでしょうか? この方言)
と、言われている気持ちになる。
関西の人達の、見た目通りの強さとは違い、一見穏やかなのに、その底に、あくまで独自の言葉を使い通す、この地の人々の秘められた強さを感じてしまうのである。
ところで「見えている?」の敬語は、名古屋ではどう言うのだろうか? 関西地方では「見えてはる?」である。この地では「見えてみえる?」なのだろうか。愛知県か三重県の方、誰か教えてください。
(西村有加)