『佳梯かこ、という女優』    written by 伊佐治弥生

 佳梯かこという女優がいた。ある年代以上の名古屋の演劇人なら、その名を知らぬものがいない、北村想の劇団の看板女優だった。彗星‘86『寿歌西へ』のキョウコ、プロジェクト・ナビ『想稿・銀河鉄道の夜』のカンパネルラ、鄭義信作・演出『杏仁豆腐のココロ』が代表作として挙げられるだろうか。女優としてだけでなく、ライター、プロデューサー、なんならラジオドラマも書いた。才色兼備を絵に描いたような人だった。

 私が彼女に初めて会ったのは、大学卒業後、フリーターを経たのちに拾ってもらった広告代理店においてだった。カコさんは、外注ライターとして出入りしており、私の指導係だった。文章にリズムをつけることを手始めに、「生活情報なんて興味がない」という私を「なんでも知っておいて損はない」と諭し、「弥生ちゃんが『できる』と言ったら、それはできるね」と励ましてくれた。

 ラジオドラマを書くことを勧めてくれたのもカコさんだった。「芝居書いてたんでしょ、なら、できるわよ」と、CKラジオドラマ脚本募集への応募の勧めに従ってはみたものの、一年目はあえなく落選。さして気落ちするでもなく慌ただしく過ごしていた私に、ところが、一通の封書が届いた。CKのディレクター角岡正美さんから、「前年度の入選作とテーマが似ており、残念ながら」「しかし、次もぜひ応募を」といった内容で、案外、素直なところがある私は、翌年も時間を捻出して書き上げ、めでたく入選した。平成元年、27才のことである。

 時はバブル真っただ中、勤めていた広告代理店の社長(NHKドロップアウト組)は我がことのように喜んでくれ、パーティまで開いてくれた。北村想さんは審査員だったこともあってか、カコさんと共になにかと後押しをしてくれ、いくつかの舞台(スポンサーあり)に結びついた。ラジオドラマでは、角岡さんの庇護のもと、のびのびと書かせてもらった。

 カコさんとは、旅行にも一緒に行った。1回目は、小淵沢のエステ付きホテル。私がプールで泳いでいる間、「だって、私、女優だから」と言い訳をしてエステを受け、なんとかの油を買っていた。2回目は、パリ・ロンドン。同窓のカコさんは仏文、私は英米とあって、頃合いの相手だったのだと思う。パリでは当地で劇団を主宰していた人々のフルアテンドを受け、観光ばかりでなく、感銘を受けた。「石畳の道は負担がかかるから」とマッサージをしてくれ、「身体かたいわねぇ」と言われながら、柔軟体操の指導を受けた。帰りの飛行機では、喫煙席を予約したはずが禁煙席になっていたのを正してもらうべく、カウンターでごねまくる私に、「もういいから!」と怒った。

 遊んでもらい、助言をもらい、仕事までくれるカコさんに、あるとき、私は言った。「もらったものが多すぎて、どうやって返したらいいか、わからない」と。カコさんは即答した。「私になんて返さなくていい。その分、下の子に返していってあげなさい」と。

 
 家の食器棚に、赤絵に金彩縁取りの梅鉢がある。私の24才の結婚祝いにカコさんが、「ずっと使えるから。金彩が剥げたら直しに出せばいい」とくれたものだ。カコさんは料理も上手く、食器や家具にもこだわりを持っていた。縁が剥げたままの梅鉢を食器棚から取り出すたびに、私はカコさんを思う。

 カコさんと頻繁に会わなくなったのは、振り返ってみれば、メールが普及したころかもしれない。年に数度が、数年に一度になり、「近いうちに会おうね」というハガキをいただいたのが最後になった。58才で、カコさんは急逝した。私はもう、その年齢を越えた。

 佳梯かこという女優がいた。美人で、育ちがよく、頭もよく、面倒見がよく、男前な性格の持ち主だった。「舞台の上で、私は子供でいられるから。夕暮れになっても気づかずに遊んでいる子供みたいに」と、言った。