「出たとこ勝負の日々でした」   written by 芳賀倫子

30歳を過ぎた辺り。向田邦子の『あ・うん』『阿修羅のごとく』等の傑作ドラマを観て、私もドラマを書いてみたい、と思いました。子どもたちが小学校へ入学した頃のことです。
「そうだ、シナリオを習おう」。東京・青山のシナリオセンター・名古屋教室で学び、講座が終了した後、シナリオ同人誌に参加しました。その後、編集に携わること10年に及び、よく書き、よく読んだものです。

シナリオライターになる切っ掛けも、この同人誌を持って大学の先輩だった松本喜臣さん(劇団シアター・ウイークエンド主宰)の元を訪ねたことに始まります。台本書きの手伝いをして、そこで出会った人たちに、深夜ドラマの脚本を頼まれ、さらにNHK文化センターのシナリオ講座の講師を頼まれ、NHKの番組構成を頼まれ、東海ラジオのドラマを頼まれ……、次第に次第に、仕事が増えていったのです。

ここで役立ったのが、同人誌を作っていた頃の「読んで、書いて」の修業です。大抵頼まれる仕事は「急ぎ」と相場が決まっています。昔は手書きなので、デイレクターさんは上がってきた脚本を活字にし、冊子にしてスタッフ全員に配らなければなりません。だから、とにかく、脚本は早く欲しいのです。その点、早書きの私は重宝がられました。頼まれた翌日に30分のドラマの脚本を持って行って驚かれたことがあります。
また、シナリオ講座を始め、いろいろな講座を受け持つようになると、生徒さんが発表した作品を素早く読み取り、評価しなければなりません。ここでも修業が役に立ちました。

頼まれれば何でも書きました。というのは、私は遅れてきた新人だったので、ああの、こうの言ってる余裕はありません。頼まれたら、即書く、それしかないのです。シナリオだけでなく、広告代理店の企画書や広告コピーも作りましたし、変ったところでは、中学校の校長先生の卒業式の挨拶文や、PTA会長の祝辞なども書きました。卒業生の心に残るような言葉を述べたい、ということで、私自身の記憶の中にある印象的な言葉を紡いで書いたものです。身近なところでは町内会のお知らせ文書なども書きました。そんなこんなで、私の50代、60代は走りながら書いていたようなもので、どういう日々を過ごしていたのか記憶にないぐらいです。毎日、毎日、出たとこ勝負で仕事をしていたような気がします。

そういう時代とクロスするように、エッセイや自分史を書いたり教えたりする仕事が増えてきました。文化センターや大学のサテライト教室、高年大学、生涯学習関連の講座等々、東京、大坂、滋賀、岐阜などへ指導に行きました。これは、春日井市の文化財団にある『日本自分史センター』の講師・相談員を務めていることにより、そのご縁で広がっていった仕事でもあります。あちこちで講座が終わるとサークルができ、その指導でまた関わりが出来、という具合に、70代としては体力的にハードでしたが、高齢でも務められる仕事にシフトできたのはラッキーでした。

こう書いてくると、順風満帆の仕事人生だったように思われるかも知れませんが、なかなかどうして難儀な仕事も数々ありました。初めて書いたオペラの台本も苦戦しましたし、高名な学者さんたちと肩を並べて講演するときも、身の縮むような思いでした。自分の非力さは誰よりもよく知っており、情けなく思うことも多々ありました。
それでもこれまで書くことで身を立ててこられたのは、運に恵まれ、人に恵まれ、そして何より健康に恵まれてきたお蔭です。NHK文化センターで30年、春日井エッセイクラブで23年指導してきましたが、一度も休んだことがないのです。エッセイクラブでは20周年のときに、「皆勤賞」を盛大に祝って戴くという喜びもありました。

80歳になった現在は、シナリオ、エッセイ、自分史の指導や講演活動、本の編集など年齢に相応しい仕事がほとんどを占めています。これもまた、人とのふれあいが多く、有意義な仕事になっていると思われます。
上手く書けなくて、泣きながら徹夜した日々も浮かんできますが、ならしてみれば楽しい思いの方が多く、あとはどう、ソフトランディングするか、探っている今日この頃の私です。