「これはラジオドラマじゃありません」
NHKの打ち合せ室。ディレクターさんの一言に、思わず、
「ラジオドラマって、どう書くんでしょう」
と、尋ねていた。
「そうですね、まず目を閉じて書いてください」
目を閉じて書けとは・・? 何がなにやらさっぱりわからなかった。
何しろ、十年以上演劇と関わってはきたが、ラジオやテレビとのお付き合いは皆無。それがなぜラジオドラマを書くはめになったかと言えば、私の書いた舞台劇を、たまたま当のディレクターさんが観てくれたからである。
「ラジオドラマ、書いてみませんか」
の言葉に、何のためらいもなく、
「書きまーす」と答えたのは、若気の至りと言うよりない。
普通なら、
「とっとと帰れ」
と、局からつまみ出されるところだが、そのディレクターさんは人間が出来ていた。ラジオドラマのいろはを丁寧に説明してくださった上に、9回にも及ぶ書き直しに根気よく付き合い、オンエアに漕ぎつけてくれたのである。
諦めなかったのには理由があった。すい臓癌で入院中の父に聞いてもらいたかったからだ。舞台公演を欠かさず観に来てくれた父だが、さすがにもう病院は抜け出せない状況だった。だがラジオなら聞いてもらえる、と思った。
放送の翌日、病室に行くと、第一声で父が言った。
「聞いたよ」
笑顔だった。夜遅くの放送を、ベッドにラジオを持ち込んで聞いてくれたらしい。それから間もなく、余命宣告通り父は逝った。間に合ってよかった。諦めなくてよかったと心から思った。
それがきっかけで、私のフィールドは舞台からラジオに移ったのである。
さまざまなドラマの現場に立ち会い、さまざまな俳優、音楽、録音技術に触れる中で音の世界の面白さを知った。中でも毎週民放で放送された時代劇ドラマは刺激的だった。30分枠だったが話のもとになるのは各地の民話や伝説なので、現地取材と資料調べをして書かなければならない。それに加えて演出も任されることになったため、大車輪で走り回り、睡眠時間3~4時間の日々が四年間続いた。
それでも疲れを感じなかったのは、何よりスタジオでの収録が楽しかったからだ。ディレクターさんがこちらの無理を聞き入れ、音楽を流しながら脚本の流れの通りに録るという、まさに舞台を作るのと同じ感覚で作業が進められた。その当時はまだテープ編集だったので、失敗すればシーンの頭まで逆戻りだ。役者さんたちは真剣勝負でこれに挑んでくれた。
演出という役目を担った私は、脚本を俯瞰的に眺める術を学ぶことができた。だが楽しいと同時に物足りなさも感じていた。二時間、せめて一時間半あればもっと掘り下げられる。そんな素材にめぐり会うと、悔しくてならなかった。放送コードに縛られて書けない台詞もある。表現の自由度を考えるなら、やはり舞台は捨てられないと思った。ラジオというフィールドから再び舞台に帰って来たのは、十年ほど後のことだ。
するとあらためて見えてきた。音の力というものが・・・。
音楽はもちろんだが、人間の発する言葉、声が放つ魂の響きについてだ。目をとじて台詞を聞くと、それがよくわかる。空っぽの台詞からは、何も心に響くものがない。ふと、ラジオドラマを書き始めた時に言われた言葉がよみがえった。
「目を閉じて書いてください」
あの言葉は、全てに通じていたのだ。
キャラクターで演じようとする役者に、「音が違う」と言うと大抵はキョトンとする。私の言う「音」とは、心のことだ。心が発する音には真実がある。音は嘘をつかないのである。
そこで思った。見るラジオドラマが作れないだろうか。動きではなく、言葉に拘ったドラマ。朗読でも演劇でもない語り物の世界を、舞台で表現できないだろうかと。
そんなわけで現在は、鮭が生まれた川に帰るように舞台という川に帰り、暗中模索を続けている。
舞台のおかげでラジオの面白さを知り、ラジオのおかげで舞台の魅力を再発見することができた。回り道ではなく、必然だったのだろう。ディレクター、スタッフ、俳優、取材を受けてくれた現地の皆さん、私を育ててくれた全ての方々に感謝だ。